【歴史】特別会計のルーツは萩藩(長州)の「撫育資金」だった!

長門国萩藩地図

 

撫育(ぶいく)制度とは、萩藩7代目藩主毛利重就(しげたか)が始めたとされる、藩の裏帳簿を組織的に運営する仕組みのことです。

幕府の弾圧に苦しんだ毛利家

萩藩宗主毛利家は、石高120万石、中国地方10ヵ国を領地とする大大名でした。ところが、1600年の関ヶ原の戦で徳川方に敗れたため、本州西端の長門・周防の2ヵ国に減封されてしまいました。
領地も石高のそれまでの5分の1となった毛利家は、さらに没収された8ヵ国分の租税の返却も要求されたため、巨大な借金を背負った状態で藩の運営を迫られることになったのです。
さらに、徳川幕府から毎年のように江戸城の改修工事や大火事や大地震による復旧工事、橋や道路の敷設工事など重い負担金が課されました。

藩存続のための苦肉の秘密資金

1763年毛利重就は、何とか藩の財政を立て直すため宝暦検地を行い、石高を一気に6万石分もアップさせました。
そして、重就は一計を案じ、表向きには2万石の石高増とし、残った4万石を密かに別会計としたのです。
「撫育資金」は一般会計の”本繰”とはまったく別の秘密資金とされ、藩主直轄の「撫育局」によって運用されました。ちなみに、撫育局の収益は本繰りの4倍あったとされています。
これが、後の討幕運動で武器弾薬を購入する資金となる「撫育制度」の始まりでした。

撫育局の資金源

それでも、検地をちょろまかすくらいでは大した金額にはなりません。
そこで考え出されたのが、藩をあげての倉庫業と金融業、密貿易です。
1840年撫育局は、馬関と室積の港に越荷方を設立しました。これは、日本各地からやってくる商人たちのための倉庫業で、三方を海に囲まれた要所である長州にとって持って来いの殖産でした。北前船や壱岐、対馬を経由した朝鮮船、長崎や薩摩からの商船と、東に瀬戸内海を経て日本一の商業都市大阪が控える海上交通の要中の要となっていたからです。
さらに、倉庫を利用する商人たちを相手に、米を担保に金を融通する金融業や新潟藩らと組んだ朝鮮や上海との密貿易にも着手し、莫大な秘密資金を蓄財していったのです。

撫育局と幕末の志士たち

言うまでもなく、萩藩(長州)はのちの明治新政府を樹立し、その組織づくりを主導しました。ここでは、秘密だった撫育制度と幕末の志士たちとの関係を見て行きましょう。
明治新政府の黎明期、いまの財務次官にあたる大蔵大輔が井上馨でした。彼は、後に大蔵大臣となりました。また、局長クラスにあたる大蔵少輔は、のちの総理大臣伊藤博文が担っており、大蔵省はその初期から長州閥が牛耳っていました。
そして、なにより注目すべき点は萩藩時代、伊藤と井上の役職が赤間関(馬関の意)外人応接掛だったことです。(同僚には村田蔵六こと大村益次郎もいた)
実は、赤間関外人応接掛は撫育局直属で、彼らの上司は木戸孝允だったのです。木戸は、赤間関応接場越荷方対州物産貿易事務管掌という越荷方トップの役職で、その下の実行部隊として伊藤、井上、大村が動いていたのです。
さらにいえば、越荷方対州物産取引組駆引として馬関の現地で采配を振るったのは、あの高杉晋作でした。

長州勢は1865年から翌年にかけての2年間でミニエー銃4300丁、ゲーベル銃3000丁、木造蒸気船3隻、鉄製蒸気船1隻などを購入。その資金として、少なくとも15万205両の支出があったことがわかっています。これらを購入したのが前出の志士たちで、彼らに武器を手配したのが坂本龍馬だったのです。
そう。萩藩(長州)出身の志士たちは、みな撫育局員だったのです。

特別会計と撫育資金

ここまで見てきて、勘のよい方はもうおわかりだと思いますが、この撫育資金こそ現代につながる「特別会計」そのものなのです。
このことがわかると、なぜ特別会計が一般会計と別なのか、常に一般会計よりも潤沢な資金であふれているのかもたちどころに理解できるでしょう。

 

このように、何かとやり玉にあがる「特別会計」ですが、そのルーツは江戸時代の萩藩にあったのです。
徳川幕府の弾圧で藩の財政はいつもひっ迫していました。士族も町民も農民もいつも苦しい生活を送っていたのです。その証拠に、萩藩では1831年に13万人の民衆が蜂起した最大の「防長大一揆」が起きています。撫育資金を優先するあまり、民衆への徴税が厳しかったからです。
それでも、萩藩は攘夷決行のため撫育を止めませんでした。最終的に、明治維新前後で100万両から150万両、現在の価値で100兆円あまりの金額を出費しています。
さらに、萩藩最後の藩主だった毛利元徳は、1871年旧藩から受け継いだ財産を明治天皇に献上していますが、その金額は70万両もあったのです。それほどの金額を撫育制度を利用して蓄財していたことになるのです。
秘密の裏会計のなんと恐ろしいこと。

ちなみに、日本に「長州藩」という藩は存在しなかったことをご存知ですか?
長洲という呼び方は、薩摩の薩州、広島の芸州と同じで、長門・周防のあたりを律令制区分で呼んだときの名残りだそうです。
公式文書では「萩藩」、普段は「長藩」とするのが正しいのです。

 

資料:『明治維新という名の洗脳』苫米地英人著

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